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April 28, 2018

 

 

   GW入口の昨日。1人で空港にいた。
短い春の間に、自分のこれからのことを考えている傍でいろんな出来事があった。その時の一つ一つは印象的な出来事に感じるのに、時間が経つにつれて日常と同化していくように思える。

    桜が早々と開花し始め、カレンダーの日付も月の後半に折り返す頃、父との別れがあった。
    今日はその四十九日法要で、実家に帰ってきている。葬儀の時は雨と寒さでひどい天気だったのが、今日は大型連休の幕開けを盛大に告げるような快晴。陽炎がメラメラと緑を揺らして、軽く焦げそうな陽気だった。

    四十九日まではあの世とこの世を行ったり来たりして、四十九日法要のあとは仏様になるための修行に出るらしい。仏様になれるかどうかは、残された人たちにかかっているそうで、それはちゃんと供養するかどうか(おそらく、日々手を合わせるとか、夏のお盆でやるべきことをやるかどうかとか)ということらしい。

    自分にとって身近な人がいなくなることの寂しさは、言葉にするのが難しい。父に対しては最後まで複雑な感情だったけれど、そういう人に対してさえ、去っていく寂しさや虚しさというものは拭い去ることができない。避けることのできない胸の痛みみたいなものを、祖父や父の死で(その間の飼い猫の死で)感じた。

    身近の人の死には、いるようでいない、いないはずなのにいるような感覚が付き纏って離れない。それが寂しさや虚しさを強く意識させるのかなと思う。もしくは、どうにも出来ない時間の流れについていけてないのかもしれない。実家にいる時は、田舎特有の寂しさも重なってか、そういう感傷的な気持ちに囚われてしまうことが多い。

    人の死を自分のこれからに重ねてみたりして、残りの時間が悔いのないように、という至極当たり前のことを考えてみたりする。結局、そういうことで気持ちを切り替えて、どうにか乗り越えていくしかないのだと思う。

    お別れのついでに残った連休は、色んなことを考えながら普段出来ない「特に何もしない休日」を満喫したいと思う。 

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